ソノヘソ 


へっぽこな日々のこととその場の思いつき
by ソノヘソ
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カテゴリ:考える筋トレ部( 16 )

そこはどんな言葉のサイズの場所だろう


広場がある。
デジタル的広場だけど人が集う場所だ
「自由に集って交流してくださいね」
そう、言われている。

おお、交流しよう、そうしよう
でも、投げられる言葉のボールは少ない

これってどういうこと?
広場の眺めている人たちも
ここが言葉のボールを投げる場所だってことを知っている
ボールを投げるのが上手になりたいと思っている
興味関心があってそこにいるのだ

でも投げない

一つ目は恥ずかしがり
「自分なんかのボールなんて」
と自分の編み出すものの価値を認めていない
わざわざ人に知らせるようなものだと思っていない
とんでもない、パブリックじゃないですよ

二つ目は使い方がわからない
「ここはどんな言葉のボールをなげる場所?」
楽しい会話をとおして互いに知り合う場所なのか
考えを練って言葉の技術をあげる試練場なのか
自分の体験や思いつきをシェアする場所なのか
わからない
ただ、「ここは交流する場所ですよ」
そんな看板が立っているだけ
フォームがなさすぎて困っている

三つ目はめんどうくさい
言葉を投げる?
相手の反応を想像したら疲れてしまったよ
いいよいいよ
端から眺めているから自由に遊んで
わざわざ行動を起こしたくない
だって日常でいっぱいなんだ
これ以上はできないよ、ごめん

限られた人しか使わない
思い切ったり、ずうずしかったり、スパイのように様子見したり
ボールを投げたい気持ちはあるけど動かない
遠慮という綱が張り巡らせられている

それはどうすれば解けるんだろう

ハードルを下げて軽い言葉のボールを投げる?
質のいいボールを投げて、思わずキャッチしたくなるのを待つ?
バカみたいでも数をこなす、くれぐれもジャイアンリサイタルにならなように

遠慮の綱は日本人で和を重んじるからなのか
言葉に興味があるからこそ真剣に取りすぎているのか
たまたまそういう性格の人が集っているのか

それを考えているけれど
答えがまだわからない
投げればいいのにどうせなら
誰も下手だなんて笑う人はいない
キャッチしてもらえたら素敵だけど
明後日に飛んでいったっていい
言葉を投げるのだって回数をこなさいとうまくならない
by sonoheso | 2011-12-04 20:10 | 考える筋トレ部

警戒区域に入ります


なにかを書くというとき
当たり障りのないものでは
心を打たない

どうでもいい、は
どうでもいいを連れてくる

さわりたくない場所
弱点、醜さ、面倒で消してしまいたいアレ
そこに伝えるだけのものが眠っている
誰に?
まずは自分に。自分が宝を得る。
自分が弱くてくだらんと思っている箇所が
実は人にはない視点の素だったりする
気づかなければしまったままでおしまい
でも取り出したらその価値に
こっそり笑みが漏れる
くだらない自分ではなくなかなかやるじゃないか自分
になっている。
それが書くことの効用。

「病気」とか「大切な人が死んだ」とか「災難にまきこまれた」っいう
大きなマイナスは確かに表現するうえでビビットで
「これ持ってこられたら勝ち目ないよ~」ってな感じになru

でもなんで、勝ち目ないよ、とか、マイナスを表現する側も「これはずるいかも」って思うんだろう?

書く本人は
これを書いたら自分の底をさらけ出し、
自分に、そして人に影響を与えずにはいられない
あとには引けない覚悟を決めるし、

受けて側は
そんなしんどい、暗い、深いところを披露されたら
自分のしんどい、暗い、深いところが開かずにはいられない
書き手に胸倉をつかまれ魂が引きずり出される痛みを感じる


飛び道具みたいなお題は強い
人は、はっ!!!と引きつけられる
ニュース性が高いから、それだけで価値がある
でもニュースは掘り進んで普遍的ななにかを獲得しない限り
新聞紙のように翌日には捨てられる

そのままで必殺技みたいな強いお題がなくとも
人をぶるぶる揺さぶるものは出力できる
個人の課題は突き詰めれば普遍性を帯びる


一歩進むのだ
何か踏み込んだときでてくる感情は
あなたと私とどっかの誰かの奥底に流れているもの
共有できる宝
だから人は伝える
人は書く

だれでもトレジャーハンターになれるのだ
by sonoheso | 2011-12-03 10:31 | 考える筋トレ部

これは、誰かへの手紙です。

アートな秋&自分磨きの秋を楽しむなら?

文章が違う、といわれた。
ズーニーさんの表現力ワークショップでご一緒している高橋さんにワークショップで書いている文章と、ブログの文体が違うと
はて? なんでだろう。

ワークショップではお題が出される。
「自己紹介」「相手に伝える」「自分を社会にデビューさせる」
明確な他者がいる。説得しなければならないことがある。
戦略が必要だ。
キャッチーなつかみ、すかさず主張、でも押しつけがましくない調子も必要
そんな感じでソフトにクリアに言葉を差し出す
いうなればワークショップでの文章は
演台でのスピーチだ
とてもパブリックで、人の気を逸らさないように心がけている

対してブログ、
まずはインド日誌
これは異文化を客観的に分かりやすく伝えよう
という試み
アーユルヴェーダって何ぞ?
と興味をもっていただけたら至福
だからなるべくセンテンスを短く、明確に書く
だからインド日誌は
カメラを通して風景をみるみたいなレポートだ
周りにはなにがあり、どんなことが起こるか中継しましょう、という意識

そして日々のこと
これは思考の過程のアーカイブ
というつもりで書いている。
疑問がはじめにあって
それを書くことで追いかけていく
だからどこか素っ気なくて慌ただしいかもしれない
でもこれはアーカイブ
いつか読み返すことを意図している
読み返すのは未来の私であり、共通話題をもっている誰か
手紙だ。
伝えたいことを孤独に必死に、でも届くことを疑わないで書く手紙。
なので破綻があってもご愛敬。
それも含めての課程が大事だ。

と、いうような違いがあるなと気づいた。
積極的に意識はしていなかったけど
書く前の姿勢が違った
なるほどな
by sonoheso | 2011-12-02 19:55 | 考える筋トレ部

解放の手立てと出す手続きは偉大だ

ニュース・評論


今週の大人の小論文教室で一番残ったのが

よいマニュアルは解放の手だてを用意してくれる。

そのフレーズで思い出すのは
高校時代演劇部で練習としてやっていたエチュード
お題が与えられ二人で即興演技をしあう。
例えば、駅で人を待つ、夏休み、昼寝をしている猫、お祭りでの恋人
守らなくちゃいけないルールは相手のリアクションを否定しないこと
それだけ。
たったこの二つの制約が
想像力の懸け橋になる。

なんのお題もルールもないとき
高校生の私たちはうろうろざわざわ
にやにや笑って周囲をうかがったり
手元にある台本を読んでみたりするだけだった。
でも、講師がエチュードとして
お題とたった一つのルールを設定するだけで
私たちは動き出す。
子供の遊びみたいに際限なくセリフは溢れ出し
観客役の仲間も夢中になる。

アウトプットのきっかけがあると
驚くくらいやりたいこと、伝えたいことが噴出してくる。
ないとふん詰まりで高校生の私はどうしていいかわからなかった。
うずうずしてるけど糸口がわからない。
できない、とは思ってない。
想いが大きすぎてどこから手を着ければいいかわからなかっただけ。
その大きすぎる想いに印をつけるメジャーがお題とルールだった。
印があれば、取り出し方がわかる
ああも、できる! こうもできる!
まったくの無からなにかを取り出すのは
よほどの才能があるか、訓練された技術者でないと無理だと思う。

マニュアル本にも上出来なものはあって(失礼な言い方ですが)
それは枠を示して、読者を遊ばす余裕をもたせてくれるもの
よい問い、を含んでいるもの
スーニーさんの言う
良いマニュアルは解放の手立てを用意してくれる。
ああ、たぶん良いマニュアルは加工品でなく生ものなのだ
だから高校生の私たちは生き生き摂取して栄養にできたのだ
金時豆子さんの言う、「出す手続き」はすごく有効
大人の補助があって
はじめて私たちは駆け出せたのだと思う。

ズーニーさんの講座でのインタビューワークでも
この「出す手続き」「解放の手立て」
を強く感じる。
決められた質問に答えていくことで
私の中にルーラーや座標軸が作られていく。
それがあれば人前での発表もできるし、800字に文章にもまとめられる。
きっかけがあれば表現ができるというのは
子供でも大人でもだれでも同じだ。
by sonoheso | 2011-11-30 19:16 | 考える筋トレ部

本当のあなたならいいけどそれはなになの?

違和感を感じる時がある
本人は張り切ってる風
でもこちらはついていけない
悪い人ではないだろう
でも、何か違和感がある

本当のあなたなんですか?

それともこういう自分で売っていこうという
商品としてのあなたなんですか?

商品としても、なんかニセモノ感がある
つるつるのプラスチックのような味気無さ
見た目は良いけど、工業製品のように個性はない

借りてきた言葉
振る舞い
テンションの乱高下
本当の自分の実感からでていない
「こういう風にすれば、大丈夫」
架空のなにかを挟んでいる

だから本人が見えなくて気持ち悪い

つまらなくてもおかしくても暗くても
生のあなたが面白いのに
見た目なんかより
中身の充実
それを見たい
by sonoheso | 2011-11-25 17:14 | 考える筋トレ部

重い言葉と軽い言葉

山田ズーニーさんのコラムを読んで考えた

でかい分子のように
自分で栄養を吸収して言葉を発している人は
ボディブローのような重い言葉をぶつけてくる。
うちの母はきれい好きだ。

暇があればレンジフードを磨き、
壁と床の接する面を楊枝で掘り返し、
家中のカーテンを洗う。
ものだって自分のものなら1年使わなければ捨て、
家族のものなら3年使った形跡がなければ捨てる。
気持ちいいくらい捨てる。

そんな母の口癖は
「心を込めて扱えば長持ちする!」
だ。

当たり前のシンプルな言葉だけど、
4年さわってない戸棚がある自分にはしみる。
やらなくてはな、と思う。
デスクの上だけでも片づけたりする。
母が「きれいなところにいいものがくるんだ!」というのを聞くとそうだろうな、と思う。

知人にとても好奇心があって勉強家の生活提案カウンセラーみたいなことをしている人がいる。
とても勉強熱心なので新しいことを次々取り入れ、資格を取得する。
今はやりの断捨離のようなこともやりだした。
確かにあの本を読むと捨てる大事さが痛いくらい分かる。
でも彼女の言葉は軽い。
ふーん、よかったね。という感じ。
ワークショップにいって学んで、日々実践して、クライアントにも指導しているらしい。
だけど、軽い。
ああ、がんばって学んだんだな、以上の感想が思いつかない。

機械的に決められたルールで片づけていくのは、
トレーニングとして有効かもしれないけれど、それだけで終わり。
これさえやれば大丈夫、と行き止まりになっている。
無学な母の「私の大事な家を気持ちよく保とう」というぎらぎらした目で行う片づけは、
日々変化し、掃除法も工夫されている。

ズーニーさんの言う
「分解したものだけが構築できる」
「加工品と生のもの」
と同じことなんだろうと思う。
洗練され確立された方法は無駄がない。
誰かが試行錯誤して、まとめてくれた、分解してくれた栄養だ。
きっと純粋ですばらしいものなんだと思う。
でもビタミンCだって合成の純粋な錠剤よりもアセロラとか生のものからとった方が定着率は断然いい。
実際錠剤で飲んでいたときより生のものを毎日とる今の方がお肌の調子がよくなった。
ビタミンCはフィトケミカル(こまいいろんな栄養素)と一緒じゃないと人間は吸収できない。
それと同じで掃除の思想みたいなものだってフィトケミカルみたいに雑味のある母の言葉の方が効くんだろう。
自分で建てた家を10年間新築同様に保ってきた母の言葉は重いのだろう。

勉強熱心な彼女も「ワークショップで学んだ」「資格を取った」という大きな看板に頼りきりにならず、自分流にかみ砕き始めたら、私も言葉に打たれるのかもしれない。

自分で分解するというのは大変だけど
でもとっても大事なプロセスなんだな。
by sonoheso | 2011-11-23 18:42 | 考える筋トレ部
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